CAT-blueの部屋

京都在住の大学生の猫です。建築と機械学習を勉強中です。ロシア語とか数学にも興味があります。

メタモルフォーゼ

哀しく偉大。すべては人間の構造的性格の中に理由がある。美しさが,人間抜きにして存在するのではなく,むしろその逆の性格が人間にあるために美しさへの理想が生まれる。現実へのアンチテーゼとして理想は生み出される。そこには期待も込められている。動物が美しいのではなく,身辺の生活が醜いだけなのでは。我々の感覚の中に,比較するもの,本能的なものがあっての感覚である。どこかに一時感覚があったはず。そこから抽象されて,論理的に,あるいは物質の洗練の結果としての今がある。

 

所詮人間は死を宿命づけられており,あらゆる願望はその宿命からの逃避の性格を帯びている。不老不死が死の存在の前には無意味である。石は死を恐れない。死が定義されておらず,かつそれを自覚しないから。

 

 生命の現象は死への抵抗,非生命への退化への抗うことがその構造的な規則を与えている。捕食行為が残るのも,それを望まない種が消えて,生命がよってそのある種の保存と増加の構造を選択的に残してきたのである。ある種の存在上のバグのようでもある。地球が目的をもって美しくあるわけではなく,生命が人間の視点からは不純であり,地球規模のダイナミクスに過剰な期待を寄せているだけ。人間の感じる美しさを根拠に保存を訴えるのもまたエゴイズムに過ぎない。それを正当化するには他のロジックが必要である。環境保護の行き過ぎた正義感が気持ち悪い。多くの正義感が正義の感覚の下に正当化されがちな気がする。あなたの正義が客観的に正しいとは限らないのに,その制御されていない正義感が暴走する。魔女狩りも,多くの虐殺もある種の正しさの名のもとに執行されたのだろう。結局人間の正しさの感覚も,疑いつつ,しかし臆病になることなく行使されなければならない。美徳であると同時に思い上がりでもある。

 

臆病さは失ってはならない。果敢さも必要である。バランスを決める方策は環境に依存する,つまり目標は幸福の実現であるから。誰の基準でなにを成功と見做すのか,それ自体も評価されるべきであり,そこに時代の価値観が侵食するのは当然である。しかし世界が荒んできたときにモラリストが発生するのも頷ける。何となく不安で,何となく感情的な行動が増えるのだ。強すぎる感情とは距離を取るべきだ。大きな意味での価値観の変化の過程に人間がいること。もう少しこの不安定さは続き,その先に新しい秩序が構成されること。人々が思うほど世界は完成されていないが,人々が悲観するほど簡単には壊れない。流されながらも上手にポジションを取るのが気持ちの持ちようとしては正しいのだろう。