CAT-blueの部屋

京都在住の大学生の猫です。建築と機械学習を勉強中です。ロシア語とか数学にも興味があります。

現実非逃避

学部4年間を過ごしたこの部屋で,段ボールに囲まれて生活している。来月には引っ越さなければならないからだ。本の並ばない本棚はひどく無機質な印象を与える。あったはずのものがなくなって,不愛想な段ボールへと詰め込まれてゆく。部屋全体から,僕がいたという痕跡が失われてゆき,ただの,誰かの住むための空間へと回帰してゆく。もとよりただの学生アパートだったのだ,忘れていたのか?物質的な空間が鋭い現実感を突き付ける。ただたまたまそこに住み着いていた男に過ぎない。画鋲で空いた穴と青色の絵の具がかろうじて私が過ごしたことを主張している。実際に私はそこで過ごしたのだ。

 

 明日には実家に帰る。今年,この部屋で過ごすのは今夜が最後である。そして実家から戻ればすぐにこの部屋から立ち退かなければならない。本来は3月,4月に引っ越すつもりだったけど,その時期の繁忙期であることを考えて早めに引っ越すことを決めた11月からあっという間にこんな時期までやってきてしまった。最初こそ今住んでる場所に未練たらたらだったけど,今はもうこの現実を受け入れている。いろんなものが美しかった,何となくそんな思い出としてドキュメントに保存し,新しくやってくる現実に備えようとしている。これまでとこれから節目を入れようとしている。

 

私の学部生活は何だったんだろう。世間が想像する怠惰で楽し気な生活とは,程遠かったかもしれない。もっと陽気な人間だったら楽しかったのかもしれない。いろんな人と交流して,成功と失敗を繰り返し,他の世界を広げる道もありえただろう。ただ,生憎まだ陰鬱さを曳きづっていた。勉強もした。が,身近な勤勉で誠実な友人ほど,真面目に勉強したともいえないだろう。確かに,数学とかプログラミングとか,やってみたかったことは叶えられたのだと思う。しかし,少しふんわりしすぎている。ただ曖昧な記憶が漠然とこびりついている。

 

ふと地元の生活を思い出していた。地方という言葉はあまり好きではないけど,あそこは少なからず地方という言葉を退けえない土地だった。九州という土地が,個人的には嫌いではないが,その美徳を享受できるタイプではなかったことが残念だ。父親とか母親との関係で自己放棄を起こしていたかなと今は思う。そういう意味では両親の影響を外れた場所での生活は,自我の再生の時間だったのかなとも思う。きっとそうだ,一度死んだ自我を少しづつ別の自我として再構成する時間だった。そういう意味では,見えない透明な建築を建築できたかなとは思う。数学も,かかわった人物も,親や地元の価値観を代謝し新しい地層を形成してる,多分。私の選択で取り出したものを装備している。次は,願わくはこの透明な建築を社会の中に存在せしめたい。透明な確固たる存在感を獲得したい。

 

次住む場所は大学と社会の汽水域のような場所だ。次の世界にはじかれてゆく前の準備の地。多分今より元気で過ごせる。そういえたことがすでに元気への兆候。同時に社会にあなたの存在価値を値踏みされる,多分心をすり減らされる。摩耗と拡張を繰り返すように生きていく,そうありたい。今日も雨が降っている,センチメンタルを加速するのだろう。

午前四時。湿った雨が降っている。

 

中国に行くことになった。晴天の霹靂、というほどではなく、もともと友人が中国人の留学生と旅行するということを言っていて、ありがたいことに僕も誘っていただいたという形である。四川周辺の観光になると思うのだけど、その留学生の友人と話していると、同じ東アジアであるとは言え日本と全く違うこと、知らないことだらけであることを痛感した。想像よりも自由主義経済で格差はあるけど、エネルギーがすごくて料理とかは美味しくて安いみたい。キャッシュレスだしウーバーとか日本以上に普通で、深夜まで配達してくれるらしい。豚の脳みそとか血を固めた豆腐とか、日本にはない独特の食文化にはすごく惹かれる。四川では中国全土の美味しいものが集まるグルメ都市みたいなとこもあるらしく、結局食べ物が一番楽しみみたいなところもある。建築や広大な国土に裏打ちされた景色とかも勿論楽しみだ。3月終わり、卒論シーズン明けてから行くことになるのだろう。今から結構楽しみである。

 

現実逃避。始めたらすぐ終わるかなあ、と思っていた遺伝的アルゴリズムの利用だけど、難しい、、、。ライブラリ使うから結局そんなには、というのは考えが甘々でしたね。これまでのものと組み合わせようと思うとめちゃくちゃいろんなところ調整したり、結局自分で実装しないといけない関数も多い。よく考えるとこれでそこまで早くなるとも思えないしなあ。憂鬱。明後日までにとりあえず普通のGAが動くようにして、機械学習の応用はもう少し先。多分今月はこの内容で終わるだろう、卒論の一部分をなすテーマだろうし、まあできてテーマ的には一つ二つというところが関の山。その先は論文にまとめる時間になるであろう。

 

思ったよりも僕はメンヘラだ。そして独占欲が強いと思う。愛されたいというか、独占したいみたいな感情。特別扱いされたいみたいな衝動を自覚して、凄く阿保らしい気分になった。どこかに母の存在のイデアを求めてるみたいなところはあるのかもしれない。コーディングに飽きて(さっきからずっと飽きてるような気もするが)、冬の気配を感じる窓の外に湿った雨が降り始めた時間に。

最大最小、存在、確率

確率論に興味があるといいながら最近あまり確率論の勉強ができていなかった。卒論の進捗どうですか?と言われると死んでしまうけれども久々に確率論の本(確率論、熊谷隆、2003)の最初の方を読んでみた。後、問題を解いてみる大事さを思い出したので考える練習をしてみた(解けるとは言ってない)。コンパクトに測度論的確率論がまとめられており、しかしながら飛躍があるわけではないので集合論に多少の馴染みのある方なら読み進められると思う。ルベーグ積分、集合と位相を齧ってみて帰ってくるとお気持ちが以前よりわかるところが多かったので感想を書いてみる。

 

数学の世界、一般人(自分のような工学の人間ような普通の理系)が何となくで済ませるところに大事な概念が含まれてる所がある気がする。例えば最大・最小の存在。何かしらの値の集合を取ってくればその中に一番大きいものと小さいものが入ってるでしょうなんていうのは一般人の感覚で、そのイメージするであろう絵というのは強い条件がたくさん入っていたりする。そもそも集合と言って離散的なものとか有限のもの(飴玉で象徴されるような素朴な集合観)を想像するのは限定的なイメージで、連続的なものや無限の要素とか考えると最大最小の存在は全く自明ではなくなる。僕みたいな弱い理系の人間でも開区間上の関数の値に上限や下限が存在しても最大最小は存在しない例があるは想像できるはずだけど、一般的な話になると何となく当たり前に思えてしまうことはたくさんある気がする。ユークリッド空間上ではコンパクトな集合上の連続関数には最大最小がある、なんてのは微積分の教科書の最初の方に乗ってることだけど、実数の世界で、普通の関数を考えてるだけでも連続とかコンパクトとかいろいろ出てくるのに素朴に考えると当たり前のように思えてくるのはやはり感性の違いであろうか。

 

数学の本、こういう(一般人には)直感的に明らかなことをちゃんと考えると決して当たり前ではないことを考えるのに定義とか定理とか与えてたりするから、そこが読みにくさというか、数学と非数学とを隔てるものの一つなのかなという気がするので、その辺のお気持ちをちゃんと理解したいなというお気持ちになったのである。何でこんなこと考えたかっていうと、最小の~~があるよね、ていう論法が確率論(というかルベーグ積分論)の中によく出ることを思い出したから。適当な族を取ってきて、それを含む最小のσ加法族が存在する。この中にまず存在を問題にする感覚とか、最初のとは?みたいな感覚があったことを思い出したのである。案外こういう包みうるものの中で一番小さいものを取れますよ、というのは別の分野でも感がえる話だったりするので当たり前的なことかもしんないけど、個人的にはこの定理(というほどのものでもないかもしれない)を見て、いろいろ思い出す所があったので、こんな文章を書いたのだと思う。昔はたぶんよくわかってなかったので、アリさん程度には進歩が得られたのかなとか思った次第です。

美的京都乃魅力

京都の空は絵になる。京都を南北に流れる鴨川は視線を遠く京都を盆地たらしめる山々まで導き、夜にはそこに月が浮かぶ。薄っすらと雲がかかっていたら最高だ。バイト帰りに鴨川に架かる橋を渡りながら、まるで日本画のようなそんな繊細な景色を眺めるのはなかなかに最高である。繁華街の光や音も良い。京都は高さ制限があるからビルの高さが限られている。空の下に行き交う人々の波、光の筋、音の粒子が何もかもエモさを演出してるかのように思われる。あるいは今家でキーボードを叩いてるだけだからそんな風に美化されて思い出されるのかもしれない。しかし、おそらく10年後、20年後も学生として過ごした京都の町をそんなふうに美化して思い出すんじゃないかと思うのだ。パリは移動祝祭日であり、青年期をそこで過ごした者には一生その記憶が付きまとう、そんな言葉を最近にしたけど、京都もおそらくそんな側面があるんじゃないかな。僕らにとっての箱庭であり、どこまでも理想を押し付けても拒絶することのないような、寛容さがあるような気がする。

 

キャンパスが変わるから、メインキャンパスの学生の多く住む町から、工学部生だけが通うキャンパスの近くの家へと引っ越さないといけない。その家探しをしたのだが、家を探したその地域は悪くはないのだ。立地は駅に近く大阪や京都の繁華街にもアクセスが良い。だけどその魅力はきっと京都としての魅力ではなく、それを思うにつけ今住んでいる町の景色がかくも切なく思えてくるものかと驚いてしまった。学生の終わりである。悪いことではない。ただ何となく切ないだけ、不完全な自分が不完全なままに社会へと押し出されゆくそのプロセスの一環に寂しさを抱いただけ。そんな感傷記。

自己紹介

 

 私は京都で大学生をやっている猫です。専攻は一応建築ですが、それ以外にも色々と興味があって齧っています。

 

まず数学は私の関心の一つと言えるかもしれません。数学が専攻では当然ないので、不正確な記述は了承していただきたいのですが、これまで一番やってきたのは解析学に結果的になるでしょう。そもそも確率論に興味があったのです。応用的にも情報や統計の分野に幅広く利用されており、理論的にもルベーグ積分を基礎として壮麗で興味深い体系を成している点に惹かれたのだと思います。そもそもは一般教養で受講した確率論の授業が訳が分からなかったこと(今思い出しても数学を専攻とするわけでもない工学部の学生に確率論の公理的なところから話し始めるのは無理があったでしょう。部分的に理論を借用し最初だけ厳密に述べただけだったかもしれませんが、それをわからせるにはあまりにもわかりにくい説明だったと思います。一週間ほど放置された給食のパンのようなパサパサとした声だった印象があります。)が原点にあるのでしょう。その時分からなかった測度論の話を自主ゼミで齧らせていただき、その流れで関数解析にも興味を持つに至ったという流れでしょうか。代数学幾何学も、基本的な定義とか関係を抑える程度のことはやりたいなと思っています。(群論は雪江代数一巻を斜め読みした程度、多様体論は最近微分多様体の気持ちが少しわかってきた程度。ベクトル場の一般化には関心がある。)多分問題といて理解深めて証明再現してとかいうよりかは、その世界の基礎を構成する概念と、そこから導かれる関係性の微妙さを感じたいみたいな動機でやっているのだと思う、言葉を借用したいのかもしれません。適度にたたく程度に思っていただけると幸いです。

 

次いで関心がある(あった)とすればロシア語でしょうか。遡れば第二外国語を何となくロシア語にしたところに端を発するのでしょうが、碌に身に着けてるでもなしにちまちまと二年間ほど齧り続け、20年の人生の初海外をロシアで済ませることになった人間です。まあロシアでは全くロシア語は喋れることなく帰ってきたわけですけど、ロシア語の学習を通じて得た経験とか、ロシアに行った時の経験はおそらく今後忘れることはないのだろうと思います。死ぬまでにドストエフスキー罪と罰を原著で読むことが目標です。今は本棚で美しくその背表紙を他の本とともに並べ居ている状態です。読めるようになりたい、、、

 

他にもいろいろ関心とか趣味はあるのですが、一回で書くのもしんどいのでこの辺で筆を下ろします。こんな一文を読んでいる人間が世界にいるのならば、心からの祝福をあなたに贈りたいと思います。相当に物好きか優しい人間であることでしょう、深く感謝します。時々日記がてらに文章を書いていけたらよいな。ありがとう、それでは。